ネオテニーたち・戒厳令

 2/11 2時

 全身の筋肉を脱力させてソファに寝ていた。友人、友人?そう呼ぶにはあまりに彼女のことをなにも知らないが、彼女に招待されたパーティはあまり好きな選曲ではなかった

 シンデレラに、2021年のダンスパーティは20時で終わることを耳打ちしたらどんな顔をするのだろう。驚くだろう。そのあとはガラスのブーツを両足とも叩き割るだろう。地面に向かって勢いよく。延長済みの緊急事態宣言が発動中のなか、24時を過ぎてもドラムンベースがサウンドシステムを揺らしている地下一階のクラブでは、ヒステリック症状になって東京中から集まったシンデレラたちがまさに抑圧下にあったリビドーを沸騰させていて、勢いあまって床に落としたカクテルグラスが粉々に割れる音がうねるサブベースの合間にあちこちから聞こえてきた。

 

 奇妙だった。YouTubeで観ることのできるロンドンの非合法なスクワット・レイヴ。あの画面越しからでも匂ってくる酔狂とマリファナと小便の香りはもちろんここにはない。違法性のようなものを共有する集団がもつ刹那の連帯意識とか熱気とか、破滅的な衝動に対する肯定でも否定でもない態度とか(痙攣して身体を動かし続けること)があるわけでもない、ただのいつもの気乗りしないクラブイベントみたいだった。

 クラブは苦手だ。人が多くてうるさくて酸素が薄い。それらの不快なことをガン無視して水を飲みながら黙々と踊っていると、山の稜線から太陽が額を覗かせ、魅惑の朝が訪れるときのように、救済されたような多幸感に満ちた瞬間があり、クラブにはその瞬間を味わうために時々行く。そうでなければ行くわけがない。

 そのラスベート(夜明けのことをロシアではラスベートという。好きな言葉でよく発音している)に似た多幸感に今夜は触れないであろうことを悟り、ソファに倒れていた。3人掛けの革張りソファにはおれのほかに白い腕を伸ばして横になっている女性がいた。華奢な女性の身体に対してはあまりに大きい上着を毛布代わりにして寝ていた。上着は砂みたいなたばこの匂いがへばりついていた。砂みたいな匂いのたばこの銘柄ってなんだっけ?適当に答えてみるか、キャメル。身体が冷えていたからおれも上着を被っていいか聞いてみた。上着の領土を少し貸してもらった。

 

f:id:nayuttttttt:20210213235909j:image

 

 2/6

 前にも紹介したいま一番おもしろい飯ブログを書いているリュウイチくんが家にきた。この家に新しい友人が来るのは久々で、おそらく最後だろう。リュウイチくんは2020年年末に知り合ってその日に仲良くなってキスをしたりした。男とキスをしたのははじめてだったが彼の唇はそこら辺の女子大生とは比べ物にならないくらい柔らかくて最高だった。彼はナイトクラブにいる”スノッブ“でいけすかない同世代のガキより遥かに賢くて敬虔だが、ナイトクラブにいるパラノイアよりも深刻なレベルで分裂症をこじらせている。ちなみにおれは彼から「イズミくん」と呼ばれているがおれはイズミという名前ではない。

 「イズミくんさ自分が22歳で社会的には結構ヤバい状態の22歳だってことわかってる?」とリュウイチくんに言われた。「もちろん重々承知しているよ」と応えた。おれがカギカッコ付きの言葉を喋ったのはこのブログの中では初めてだ。リュウイチくんもおれと同じ22歳で、行ったことはないがどうせ山口県のようなカラカラに乾いた地方都市の出身で、大学院に進む予定を蹴って大学卒業後の身の振り方に関しては未だ保留しているようだ。地元に戻るのかもしれない。その点でおれとリュウイチくんは22歳異常(独身)男性の括りで共通性はある。

 リュウイチくんはレクサプロかなにかを水で下しながら海老が嫌いな話をしていた。おれも同じ時期に海老について考えていた。おれとリュウイチくんとの相関のもう一つに、菊地成孔の文章に頻出するような、誇大妄想に取り憑かれている部分というかあれやこれやをありもしない重要な啓司だと勘違いしている点があって、要するにパラノイアなんだけど、無意味だと思われるような事柄を肉付けしてリンクさせていくことに興味がある部分が一致している。

 

 この『とんかつひなた 上ロースかつ定食』というタイトルが冠されたエントリーの中ではパラノイアに陥った彼がなんでもないただの交差点にサモトラケのニケの幻覚をみていて、おれはいいからとっととトンカツを食えよと思うんだけど、一方でこういうことになったとき、おれの視床下部はいったいどんなモニュメントを投影するんだろう。どんな形態のミューズが、ファムファタールが、おれを抱擁して(串刺しにして)横断歩道の白線と白線の内側の奈落に沈めてくれるのだろうか。ということくらいは考えてしまう。パラノイアなので。

 結論としてはおれと彼は一切の労働をしていないということだ。アルバイトとかもしていない。労働に向いていない人間ということだ。労働に向いている人間というのがいるのかは分からないけど。おれは三島由紀夫に指摘されたような満ち足りていて空洞な日本人で、空洞をバレないように意味や、意味や、意味や、意味を受肉させている。そういうことを思い出すといい気分になれる。空洞のまま踊っていていい。

 

 2/13 23時

 粘っこい地震、本棚から何冊か落ちた。

 

軟体動物の観察

 

 

 机の上にコーラのボトルがある。花瓶の右側にだ。牛皮のブックカバーに包まれた本と手帳、リップクリーム、ロキソニンの一番効くやつ、ピルケース、耳かき、ワイヤレスのマウス、去年貰った手紙、それらを在庫処分セールで買ったデスクライトの光が照らしている。コーラは午前中にハンバーガーと一緒に飲み下し、まだ半分残っているが手をつけていない。奥歯が痛くなったからだ。そのためにロキソニンの一番効くやつが机に置かれている。

 いま空腹を感じていてコーラを飲みたいが、そうしたらまた奥歯が痛み出すのでそれができずにいる。ロキソニンは一番効くやつで一番高かったのだが、鎮痛効果が現れるまでに数時間を要した。部屋のどこにいてもコーラは机の一番目立つ位置にある。

 つまり、痛みを我慢するのであれば、コーラを飲んでもいいということだ。

 

f:id:nayuttttttt:20210203035830p:image

 

(出典) : team★cpu @cputeam 

 

 快楽と苦痛という二つの感覚があって、人間はそのどちらかを信じているとおれは考えている。快楽を信じている人間は気持ちいいことのために働くし、苦痛を信じている人間は、いま苦しいことがまさに、自分の存在の証明であると考えている。その場合、おれは後者だ。

 快楽は人間の外にあるが、苦痛は人間の内側から産まれる。これは言い過ぎたかもしれない。おおよその「痛み」は、身体から産まれる。これは正しい。身体があるから痛みが生まれる。痛みは、自身が存在していて、生きていることを証明してくれる。だからおれは苦痛のことを信用していて、それに身を任せている。

 

 ロキソニンの効きが悪かったから量を倍にして飲んだら一気に眠くなってしばらく寝ていた。おれって雑な仕掛けのおもちゃみたいでかわいいなと思った。眠くなる副作用のある薬を倍の量飲むとかなりねむねむになる。ボタンを押すと音が出る。ハンドルを回すと発光する。水をかけると壊れる。

 

 高田馬場にある蝎子王(ヤンシェズ)、というマジでクソうまい中華屋で、うまいんだけど辛味が強すぎて眩暈のような感覚や、背骨がぐらぐらする感じに襲われながらパクチー入りの豚耳を食べているときに、「軟体動物の方が優れている場合もあるのかもしれない」と思った。脊椎の存在を恨めしく思ったことが幾度もあるからだ。

 イカやタコはこの店でどんなに辛い火鍋や四川麻婆豆腐を食っても、背骨がないのでぐらぐらしたりしないんだろうなと思うとそれが羨ましい。それとベッドに横たわる際、背骨はどうしても邪魔になる。猫にも脊椎はあるが、人間に比べて流動的で自由のきく身体の設計をしているので、猫が寝ている様子は水風船のように愛おしい。イカやタコならもっと気持ちよく寝れるのではないだろうか。ベッドに身体を満遍なく伸ばして、意図的に重力に押し潰され、平べったく寝てみたい。

 

 

Veroneさんにツイートしてもらった。

 

 統合失調症の人間が10秒ごとに話す話題を変えたり支離滅裂としか言いようのない理論を展開することを連合弛緩と呼ぶらしい。最近はずっとその連合弛緩というワードが頭から離れない。Veroneさんは「ハイパーポップ」という音楽ジャンルの比喩を用いて見事におれの文章を言語化した。それと同時におれが書くことは連合弛緩的だなという自覚が芽生えた。

 「ハイパーポップ」や連合弛緩というのは現在流行っている可能性がある。Tiktokが好きでよくみているが、あの、動画が無限大に関連づけられていって質の貴賎に関わらずスクロールすればするだけ、訳の分からないコンテンツが発生しては忘れられ、脳みそにトリップ効果をもたらすようなスピードは、まさに連合弛緩だ。

 シミュラークルの氾濫、というレベルではない。それはかなり魅力的だ。

 Tiktok内で誰かがオリジナルの音源を作り投稿する。過剰に性的なイメージを発明し、情欲を煽るダンスに変換して投稿する。それらはノータイムで評価され、まったくの他人たちがその素材を用いて微妙なアレンジを加え投稿する。それがパクられる、また真似られる。それらの意趣を組み合わせまったく別の動画が産まれる。それをパクる。もう誰も、なにがオリジナルなもので、それをどこのどいつが作って、どれがどれの模造品かなんてことは忘れているし、そういうことに興味を持つものは1人もいない。オリジナルを発明したとされる人間もハナからネタをパクられることなんて気にしていないし、パクられることは喜ばしいことだと考えているし、積極的に剽窃を奨励している。そして、実際にはオリジナルなものなどは最初から存在しない。

 

f:id:nayuttttttt:20210203035138g:image

 

 東浩紀が導いたデータベースとシミュラークル消費の二層構造でこのシステムを説明することもできるが、Tiktokは現時点でその生産と消費のスピードを限界まで加速させた文化だといえるだろう。つまり現代の人間は全員最強のオタクになったということなのか?そこら辺はよくわかってない。大学に4年もいるのにこれを読んだのは最近だ。恥ずかしい。

 

 おれもそうだが、そうやってわざと意識を散漫にさせた状態で暴力みたいな情報の遷移に触れるのはかなり心地いい。2000両編成の地下鉄が鼻の先を200km/hで掠めていくような、焦がれがある。

 

 

 ところで動物化するポストモダンの中で斎藤環という精神科医の研究が引用されていた。それによると、男性のオタクは、アニメの美少女に性的な欲求をぶつけているが、それは現実世界の女性に対する抑圧された性欲とは切り離されていて、実際には、オタクは自らのペニスをアニメの美少女に投影している(!!)らしい。ペニスへの執着がアニメの美少女を実体づけているらしい。これはどういうことだ?

 おれはかなり頭が悪いので文章で急に形而下と形而上を行ったり来たりされると途端に訳がわからなくなってしまう。基本的に脳が文系向けにデザインされていないからだ。なので斎藤環について調べてみた。ラカンやフロイトの研究をしていた。

 

んー、

 つまり、男性のオタクは去勢されたファルス(男性器)を画面の中の美少女に夢想しているということなのだろうか。男の子が自分のファルス(男性器)に自意識を見出し、母親と姦通したいと望むが、父親による罰を恐れ、自らファルスを手に入れることは諦める。それで去勢は成立するが、手放したファルスを仮託する場所を求め、オタクはその役割を美少女に期待している。ということなのだろうか。

 だいたいフロイトって「男性器」で全てを解決できると思っているのか?こいつキモすぎるよな。割と無理。いくらなんでも無理がある。つまり女性は男性器を剥奪させられたいきものなのか?最初からマイナススタートのいきものなのか?

 そのことについてコボリに質問してみたが、まだ返信は来ていない。半年ぶりにする連絡がこれだ。

f:id:nayuttttttt:20210203025432j:image

 だが個人的にはかなり納得がいっている。まあこういった論理を当てはめて納得できる出来事が多すぎるということだ。つまりかなりキモいが、反論はできないという状況だ。

 

 デフォルメされた裸の少年 / 少女のイラストとかを想像している。そいつらが男か女なのか判断できるのは股についている豆みたいな男性器がついているかどうかにおいてだ。そして、おれはこのイメージが持つ意味をずっと前から反復していたような気がする。 

 

 最初に書いたコーラについての話に戻る。おれは苦痛を信仰しているが、いつも痛みを感じていたくはない。一時的な逃避、連続性の遮断、ある意味での仮死状態を切望している。それによって苦痛の神性が担保されているともいえる。

 自分のことについてなので、おれが他の男より性的に早熟で、女と寝たいという気持ちが強く、男性器によって生きる苦痛を少しでも和らげたいという欲望がある時期から絶えず強烈に訴えかけてくることは自覚している。流石にそれくらいは分かる。ある程度コントロールすることもできる。コントロールしないこともできる。重要なのはそれが性欲というかなり曖昧な概念によって沸き起こる生理現象なのが納得いかなかったことについてだ。

 性欲とはなにか?おれはまず最初に排泄欲だと考えた。人間は食欲、睡眠欲、性欲という3大欲求によって体系づけられているという性教育には昔から懐疑的だった。言い方を少し換えるべきだと思った。つまり、性欲ではなく排泄欲というふうに。人間は血と肉と糞が詰められたソーセージのような物体で、それらを摂取したり排泄しなければ死んでしまう。排泄とはケガレを掻き出す行為だ。民俗学的には排泄物がケガレたモノとされるようになったのはつい最近のことだが、いまそれはどうでもいい。我々は一般的に精液を含む排泄物をケガレたものだと考えていると同時に生命維持において不可避的に発生する産物だという認識もまたある。性欲とは、セックスがしたいとかじゃなくて、排泄行為全般に対する緊急的な衝動なのではないか。

 おれは精液を排出することにに大半のリソースを割いているので何度も奴隷のようにオナニーをするが、これは排泄欲が高いからである。と考えていた。しかしこれでは女性に対する射精の代替物がなにか説明できない。それはわからない。

 

 その検討の中で、おれが男性器を信仰しているという事実に気が付けたことはかなりラッキーなことだ。フロイトに倣えば、ファルスを信仰しているとも言えるが。この男性器信仰は、おれの生活の中でもっとも優先して処理される事柄で、おれ自身が無意識に可愛がっている部分で、またアイデンティティの中核を担っている部分だ。かなり個人的な感覚なので、女性と完全に切り離して論じることも可能だ。排泄がどうのこうのとか、まったく関係ない。おれはかなり病的なレベルで自身の男性器に執着しているのだ。ヤリモクがどうのとか前ブログで書いたけどあれも錯覚で、いかなる他者の介入も許さないほど男性器のことを信じていて、その信仰エネルギーの余剰物としてこの文章などがある。

 この発見は劇的だ。

 

 

 海老があまり好きではない。伊勢海老やロブスターのレベルでも割と敬遠したい。海老の剥き身を食べていると喉の渇きにはじまって全身が干からびていくような感覚があって、肉の繊維の隙間に舌先を持っていかれる気がするからだ。この話をするとそれはただの甲殻類アレルギーだと言われる。イカとかタコとか海老とか今日は妙に磯臭い。あと、甲殻類、特に海老を食べている女性を見るとゾッとするような美しさを見る場合がある。

 おれは、海老は陸で蠢いている昆虫と同じものだと思っているので、そんなカブトムシもどきを女性の細くて弱々しいが冷徹で容赦のない両指がてきぱきと殻を砕き、関節を切断し、カルシウムに包まれていた個体をただの食べやすい肉のかけらに変えていく様子を観察するのが好きだ。こういうときの女の手は容赦がなくて好きだ。でも食っているのはカブトムシもどきだ。グロテスクな生物をグロテスクな笑顔で食っている。それもまあ悪くない。絶対にそういうことは言わないけど。

 あとフェラチオが上手な女性は天才だ。フェラチオは練習したらどうにかなることではない。もともと才能があったのを経験で開花される場合はあるが、フェラチオの才能がない女性はいくら風俗やパパ活で中年に仕込まれてももはやどうしようもない。幼年期から高校卒業までの間に父親に生理的嫌悪感を抱かずに育ってきた女性はフェラチオの才能がある傾向が特に高い。これはフロイトもついに生涯発見できなかった指摘だ。フェラチオが上手い女性はみんな父親のことが好きで、父権的なものへの従属心がある。これは彼女らも男性器を信仰していると言えるのだろうか?

 内山が安位カヲルのポルノを観たと連絡してきた。つまらなかったそうだ。それはそうだろう。

 

 2/3ナホちゃんと「花束みたいな恋をした」を渋谷で観た。観終わってからほんとうになにも心に残らない映画だった。TOHOシネマズを出て2秒後にはIKEAのシナモンベーグルのことについて考えていた。さっぱりしてむしろいい。なんだかずっとうっすらバカにされている気分だった。好きな作家がどうとか好きな舞台がどうとか列叙法のように要素を羅列させて繋がっていた人間が分裂していくのは当然だし、お互いにどの部分を愛していて、せめて顔が好きだから好きだとか、そういうふうに明言している描写が一度もなくて、ポップカルチャーをひっそり見下していて、永遠に不感症のまま減衰していく恋愛の映画だった。“愛とは自らが一歩踏み込むもの”で、そこにサブカルチャーやらなんやらどうにもならんカスみたいな舞台装置がどう作用しようが意味がない。次回はそういったことについて書く。ではまた

 

地方都市における人間関係

 

⚪︎主な登場人物

 

おれ:無能、背が高い

イルマ:引きこもり、背が高い

楓:双子の兄、背が高い

森さん:元カノ、色黒

Mさん:元カノ、色白

あすみさん:元カノ、色白

 

 元カノの森さんが結婚して子供を産んでいた。元カノの森さんが全然知らない男の人と結婚して小さいガキと一緒に写ってるアイコンでやっているインスタを見つけたときはかなり衝撃をうけた。

 森さんは中学で同じクラスだった美術部の目立たない子で、どんな付き合いをしていたかは覚えていないし、森さんと彼女の周りで起きた物騒なゴタゴタは第二次性徴期の最中にあったおれの人格に暗い影響を及ぼした。女の体に触ったのは森さんがはじめてだった。色黒の女性にそれ以来触れたことがない。

 

 なにもそんな急いでガキをこさえんでも。と思った。それについてはかなり思った。という話を同じく帰省していた楓にもした。楓の両親は我々の歳に結婚した。という感想が返ってきた。おれの親父もたしか24で結婚した。珍しい話ではない。おれは実際のところ最後に森さんに会ってみたかった。会って話してみたかったのだけれど、その期限は切れていたみたいだ。いまなんて苗字になっているのか楓に訊くのを忘れていた。

 都市部ではやたら結婚したい、結婚したいと騒いでいる人間もいる。そういうやつらは友達があまりいない。孤独を埋めるために他人と苗字を一緒にする意味ってなんなんだろうと思う。ペットを飼えばいいと思う。ペットを飼うと安心して婚期を逃すんじゃない?といわれる。うるせーなと思う。なんか思ってばっかだな。寂しいことくらい自分で処理してほしいと思う。都会なんだからいくらでもアテはあるだろう。

 

 両親から地元に帰ってくれば?との圧力を受けた。実際のところおれはまだあと一年大学に通わなくてはいけないからそれはあり得ない。あり得ないが、地元のクソショッピングモールであほヅラして靴下を買ったり幼なじみとばったり再会して気まずくなる自分のことを想像してみた。これはほぼ山内マリコ作品に登場するプロットだ。

 山内マリコの小説というのはかなりすごい。いままでどうして誰も取り上げなかったんだ?という題材だ。それは「地方都市における人間関係」である。

 『ここは退屈迎えに来て』の冒頭で主人公は地方(富山)でフリーターをやっている実家暮らしの三十路女という立ち上がりを演じている。主人公は東京の大学を卒業後、吉祥寺のパルコでしばらく働いて、なんとなく夢を喪失して地元に帰っているのだ。久しぶりに会う高校の女友達は恋人探しに躍起になりながら地元でずっと働いている。主人公と女友達が高校時代に憧れていた男子のシイナくん(映画では成田凌が演じていた。これは的を得ていた)は地元の自動車教習所で働いているらしい。二人はシイナくんの職場へ会いに行く。既婚者になり、すっかり落ち着いてどこか所帯じみた雰囲気になったシイナくん、教習車の助手席に主人公を乗せ会話をする。3人の間をとりもつのは頼りない青春時代の記憶だけ。衰えていく地元の悪口、全然名前が思い出せないクラスのやつらのその後、主人公は下手に東京の暮らしに染まってしまっているし、すっかり地元に腰を据えている彼らのようにもなれないのだ。

 おれもそうなるのかなと思った。山内マリコのファンなので、こういうところに自分が重なったのだ。だから山内マリコはすごい、全くドラマチックじゃない、本当のことを書いているだけなんだけど、それを知らなかった人にも知っている人にも提示される地方都市の情景は等身大なのである。

 

f:id:nayuttttttt:20210107101917j:image

出典 : 𝖘𝖔𝖑𝖎𝖉𝖘𝖔𝖛𝖆 (@solidsova)

 

 Mさんとは大学で遠距離の付き合いになってしばらくしてから別れた。フラれた。なんでフラれたのか未だにわからない。イルマは、だからフラれたんだろ。と言っていた。これは嘘だ。そもそもイルマはイルマという名前ではない。

 Mさんが彼女だった時代はまあまあ楽しかった。そこそこうまくいっていたと思う。おれはMさんのことを本当に愛してはいなかったけど、好きだった。彼女も相当に愛嬌をくれた。ふたりで海に行ってはたくさん写真を撮ったりもほんとうにした。でもみてもらわなくても今のおれはクズだし人を傷付けて泣かせてもなにも感じないことはさすがにない。人間を舐めるなよ。今からでも歌詞書き直しても誰も怒らないと思う。いまのMさんは客観的にみてかなりうまくやっている。高校時代に将来性はないけど好みの男と付き合って全部使い切って、そのあとは京都のインカレサークルでまたいい彼氏を見つけて仲良くしている。将来性もばっちりだ。知らないけれど。京大生ならうまくやるんじゃないだろうか。おそらく結婚するのだろう。近いうちに結婚するだろう。肌が白いからドレスが似合うだろう。肌が白いというのは本当にいい。大量のアフリカ人が非道に虐殺された歴史がそれを語っている。なんだか嫌味みたいになっているがいまMさんが読んでくれているなら素直にお祝いさせてほしい。

 イルマとはクソガキの頃よく真夜中家を抜け出して一緒に遊んでいた。イルマは修学旅行を病気で休んでからすっかり不登校になっていた。学校に行かなくなった人間はすべからく昼夜が逆転する。偏差がないなと思う。クソ早起きの引きこもりがいたっていいだろ。その頃ほかにもずいぶんたくさんのアホクソガキと深夜徘徊に励んでいたが未だに会っているのはイルマだけだ。たぶん最初にイルマと話したときに殴り合いの喧嘩になったからだと思う。人を殴ることに慣れていないのに人を殴りたがるやつばかりだよな。骨ばった手でさ。

 

 あすみさんはふたつ上の女性で、別れてからもときどき飲んでいる。別れたあとにその人と会っているというと驚いたポーズとともに眼の奥ではしっかり軽蔑しているようなメッセージを受け取ることが多い。残念だがたいていの場合そういう感情はバレている。あすみさんは面白い人だ。目が好きだった。目がちょっと特徴的な人ばかり好きになる。

 目は完全にヒトと独立している機関/生物だと思っているのでまともに人の目を見れないのだけれど好きだ。あすみさんも多分結婚する。彼女の場合おれより歳上なので事情もまた違ってくるのだろうがいまの彼氏と結婚するだろう。あすみさんと前飲んだときに結婚式に元カレを全員呼びたいといっていた。絶対に出席したくない。

 

f:id:nayuttttttt:20210107134659j:image

 

 なんだかウェルベックの『セロトニン』みたいになってきたな。最悪だ。

 ただ、結婚する意思が多少なりとも無い状態で交際している人間は意味がわからないと思う。おれ/わたしは売春婦を雇っている/ディルドを飼っているというなら、それならなにも言わないけど、みんなそれは否定するよな。その状態はなんなの?と思う。相手のことを所有物としか捉えてない人間が無限にいて、自分の理想を他人に押しつけて、型通りに成形された関係性のなかで相手のことを慮るふりをするなんて空虚だと思う。

 恋愛する資格のないやつばかりが外で乱行騒ぎを起こしているし、恋愛に固執している。無論おれも。というか恋愛どころじゃなくみんな人間関係を舐めすぎている。想像力が足りない。地元で一番最初にコロナに罹った家族は家に心ない言葉が書かれた紙を貼られ、石を投げられ、引っ越していったらしい。らしいというのはおれのママンから聞いた話だからだ。そんな話を他人にするなよ。ママンはこういうところがある。うわさ好きなのだ。自虐史観というのは日本に深く刻み込まれた敗者の精神史だ。みんな訳も分からずこうやってうわさやデマを拡散している。田舎の陰湿さをストーリー仕立てにして共通の符号にしているのだ。当の田舎の人間たちがそんなことをしてどうするんだよと思う。うわさは嫌いだ。本当に嫌い。

 だけどおれも結婚したら救われるのかなと、なんとなく思っている。なんでだろう。そんなわけがないだろ。

 楓はしばらく京都でウロウロしたあと東京に引っ越してくるらしい。あすみさんは中野に住んでいるしMさんも今年から東京で看護の仕事をするといっていた。驚いたことに、引きこもりのイルマでさえ東京に下宿するらしい。おれは大歓迎だ。こんな嬉しいことはない。みながみな都市生活者になって、そのような暮らしを獲得していくのだろう。

 シャッター街にポツンと営業している酒場でそれを考えていた。帰省すると必ず寄っている。米軍の基地があるので客はおれとイルマ以外みんなアメリカ人だ。アメリカ人だけれどもニューヨーカーって感じではない。彼らからも田舎出身の匂いが漂っている。アメリカの田舎にも村八分のシステムはあるのだろうか?その夜も賑わっていて、フットボールの試合が流れていた。トラヴィススコットのトラップもクソでかい音でかかっていた。ここのいいところは日本語が一切聞こえてこないことだ。それとオーナーがこさえた密造酒がかなりうまい。あたためた咳止めシロップみたいな味がする。おれとイルマはそれに圧倒されないように大音量でニコニコ動画をみていた。甘い密造酒を飲みすぎてトイレで嘔吐した。両隣の黒人はグローブのような両手を石鹸で丁寧に洗っている。洗面台のひび割れた鏡に青ざめた自分の顔が映る。半開きになった個室でフードを被ったメキシコ系の軍人が座ってなにかを数えている。ここの相場はいくらなのだろうか。

f:id:nayuttttttt:20210107134457j:image

酒場にて、故、MFドゥームとイルマ 

 

大学で学んだこと一覧

f:id:nayuttttttt:20201208225234j:image

 

・社会学は将来何の役にも立たないどころか、教授が逆張りの美学を先鋭化させたようなことしかいわないから普通にひねくれたオタクになる

・ベンヤミンとデュルケムは偉い

・ポストモダンが動物化しているということ

・社会学、とひとくちにしても社会心理学、スポーツ社会学、都市社会学、倫理学/哲学/思想、法社会学、教育社会学、メディア社会学、ジェンダー社会学、環境社会学・・・と対象とする研究分野はかなり多岐にわたっていてどれもかなり興味を持てた。興味は持てたが、たとえば他の学問領域のマクロ経済学とか、言語学とか語学とか、こう、明確な理論をもって明確な研究結果が得られるような代物じゃなく、漠然と「社会」にまなざしを向けているような学問なので、社会学部という学部名だけど直接的な社会へのフィードバックはない。そういうわけで学問として地位が低いという典型的な社会学への迫害に関しては多少認めざるをえない部分があるものの、それならそれで、社会学が含んでいる基礎的な教養の部分をもっとあけすけに宣伝していってもいいと思う。社会のための学問っていうのはそういうことなんじゃないかと今は認識している

 

 中華屋で飯を食っているがもしいま車が正面から突っ込んできたとしても飯を食い続けていると思う。写真とかも撮らないと思う。現代における最上の美徳とは、人が燃えていたりプリウスが店に突っ込んできたとしても尻ポケットからおもむろに携帯を取り出さないということだ。その一点に尽きる。おれの友人には写真を撮らない人間しかいないと思っている。それに救われている部分もある。

 最も無能なこととは、勃起不全が発生する場合だ。もっとも、不能な男は最初から惨めだ。不能になった男は、たいてい卑劣になって、セクハラやキャンプ⛺️やセミナーに興じるようになる。読者のみなさんもセクハラを受けたことはごまんとあるだろうが、そいつらは不能だったからセクハラをしたのだ。もちろんそんなことで許されるわけはないのだけれど、そんなやつは”マ・マー“の芯が欠けたパスタみたいなものだ。一笑に付すに限る。

 “マ・マー”の早ゆでパスタはマジでまずい。どういう神経をしたら調理時間の短縮と引き換えに味を不味くしたりできるんだろう。再三いっているがそういった待ち時間を楽しめないやつは退屈だ。我々の生活に芯が欠けたパスタとか、乾燥機とか、いうことを聞かないアレクサとかは要らないのだ。

 

・キッチンのIHはふたくちあった方がいいし、風呂とトイレは別々の方がなにかと困らない

・駅から近いところに住むよりよりいつでも空いてるスーパーとか小さい公園が近くにあるほうが助かる

・遊びの誘いは断らない。27時に呼ばれてもいく。自分が心許なくなって真夜中に連絡しても来てくれる友人を獲得するため

・ゴキブリを躊躇わずに捕まえて外に逃すことができると女性から喜ばれる

・インスタントの飯とかコンビニ弁当はあまり食べない方がいい

・他人と共有しないお気に入りのカフェとか服屋とか居酒屋とかを覚えておくと楽しいけどたいていそういう場所を基点に人間性がずれていく

・炊飯器はなくて困らないし掃除機もいらない。実家からはサトウのご飯や現金や女子高生時代の制服などを送ってもらっておくと様々なことに捗る

 

 

 以前から賃貸主の大家さんや不動産から嫌われていたのだが、先月ついに契約更新の打ち切りを言い渡され、来年から別の家に住まなければならなくなった。理由は廊下に壊れた電動キックボードを置きっぱなしにしていたからだ。共用スペースの占有。それがおれの契約更新打ち切りの理由だ。騒音の類で苦情が来たことは一度もない。僧侶同然の生活を営んでいるのでそんな連絡が来るわけもないが。友人とお互いに罵倒を浴びせながらウォッカも浴びせあったり喘ぎ声がクソでかい女と寝ても、翌日隣人は寛容にB'zをかけていた。もっともアンプがデカすぎて、稲葉の歌声が一音ずつ正確に聞き取れるくらいには向こうもうるさい。

 土地に対する愛というのはかなり複雑で無駄なものだろう。最初こそ山口県へのホームシックを感じたことはあったが、今では吉祥寺から出ていくつもりが全くない。色々なことを吉祥寺で完結させすぎた。事実、大学で学んだことはほぼほぼ吉祥寺(武蔵野市)という土地で学んだことだ。だから来年もどうせ西荻窪、あるいは三鷹台や三鷹にいるだろう。そしておおよそ吉祥寺にいるだろう。

 

・車の免許はあったほうがいい

・歳をとって考え方が凝り固まらないうちに色々なものに触れたほうがいい。色々な土地を旅してみたりするのがいい

・酒は飲めなくてもいいしタバコは吸わなくていい。シラフのうちにシラフでも楽しめることを経験できるのはもう今後あまりないので

・睡眠薬とか違法なドラッグをやっているやつと関わらないほうがいいし、やらないほうがいい

・イカれた人間とたくさん会ったりどんな形であれ恋愛などをある程度経験した方が、結果的に人間性の中央値がわかって「マトモ」なのがどういう状態なのかが理解できるようになる

・大学の勉強や就職に熱心になることはかなりよい

・浪人とか留年とか退学した人は独特のアクがあっておもしろいけど関わりすぎると自分も大学をクビになったりする

・出生ガチャで自分がどういうものに依存しやすいかというのはある程度先天的に決まっているので、早いうちにそれを見極める。ネット依存やセックス依存、アルコール依存など。他人に依存するのはあまりよくない。でもガチャだししかたない。

・苦しむ

・一人で苦しむ

・苦しいことを他人に共有してもいい。しなくてもいい

 

 

 2019年2月に璃月と山形に免許合宿へ行った。新幹線のプラットホームを降りた瞬間から牡丹みたいな雪がふっていた。あのときの雪は牡丹雪と名付けよう。ずっと雪が降っていてそれが良かった。瀬戸内海でたまに降る雪はベシャベシャで灰色だった。おれはずっと雪国に憧憬があった。「極北」ということばに心動かされるなにかがあった。山形は極北というにはまだ南だが。いつかヤクーツクや知床、アラスカとかノルウェーにいってみたい。

 自動車教習所に通い始めてから 1週間ほど経って、女性がドライブに連れていってくれることになった。クリーム色の軽自動車が真夜中2時にビジネスホテルの前に停まっていた。眠そうな璃月は後部座席に、おれは助手席のシートに身を埋めた。なにを話したかは覚えてないがとにかく、とにかくクリーム色のミライースはとんでもないスピードで圏央道を飛ばしていた。120km/hを下回らないままみぞれに変わった雪の中をぶっ飛ばしていた。かなり爽快だった。昔のハードロックがかかっていた。除雪剤をスタッドレスタイヤが砕く音とジミヘンのギターで隣の女性がなにを言っているのかよく聞き取れなかったし、聞く気もあまりなかった。山形でデリヘルをしているらしい。スリップしながら車は360度転回したり、赤信号を全部無視して長距離トラックを追い抜かしたりしていた。途中でなぜか営業していた古着屋に停まったり、誰もいないゲーセンでダーツをしたりした。氷点下のもと、うらぶれたゲーセンで地元のヤンキーに混ざってでたらめに針を飛ばすことを想像してみてほしい。濃縮還元されたジンジャエールの味、アディダスの金色の3本線、東北の方言、村山から天童へ、尿意、土曜日の吹雪、ワンマン列車、イオンモール、フィリピンパブ、シャッター街、国道13号、夜と霧、何度もうなるギター、ピンボール、ダーツ、ボーリング、バッティングマシーン、ビリヤード、景品箱、スロット、クレーンゲーム、湯気、スケート場、滴るガソリン

f:id:nayuttttttt:20201208224413g:image

 

 璃月はシステムエンジニアと並行して時計修理の専門学校に通っている。この間実に久しぶりに会った。いいやつだ。車に乗せてくれた女性の連絡先は消えた。今夜もあの道路で、あのような吹雪の中で誰かを助手席に乗せミライースを飛ばしているのかもしれない。プリウスかもしれない。ジープかもしれない。今もよくその夜のことは覚えている。そういう夜ばかりが増えていきますね。そういうことは決して感傷にも後悔にも憧れにもしたくない。社会学の権威、ヴァルター・ベンヤミンが説いた、一回性をどうにか繋ぎとめて、記憶しているだけで十分だ。

 

 どうかあなたも

 

 

あなたへ

 心が壊れそうなほど悲しいことのひとつに、あなたが惨めになって泣いていても、おれはなにもできない、無力にうつむいてやることしかできないことがある。

 もうひとつあって、あなたは今泣いているかもしれないのにおれはそれを知らないということだ。

 最後に、いま泣いているおれをあなたはどうすることもできない。

 

 我々は泣かないために人前では酒を飲んで気を大きくしたり、くだらない冗談ばかりいったりどうでもいい場所で本心を曝け出したりする。泣くのが怖い。怖いのだ。本当のことを話せるような友人の前で、泣いたついでに溢れるような「おれはからっぽなんだ」「もう何もかもいやだ」「どうして苦しいのかもわからない」みたいな情けない言葉を吐きたくない。おれはそういう無為に出てきた言葉が自分の本心だとは思っていない。そんなことのために泣いているんじゃない。あなたが泣いていてもなにも言うことができないのは、おれも自分がなんのために泣いているのか分からないからだ。残念だが

 

f:id:nayuttttttt:20201108193336j:image

 

 幸せになりたい、とみんな言う。きっとあなたも言うだろう。おれはあなたが幸せになれるような力になりたい。「そのために」生きていてもいい。と思っていた。それだと誰も幸せになれない。おれは他人を幸せにすることはできない。いくらか血反吐を吐いて自身のことを慰められるかどうかだ。あなたも幸せになれないかもしれない。あなたが幸せになれなかったりしたら、おれは悲しい。だけど他人の力で幸せになれたら、祝福したいと思う。

 誠実さとはなんて難しいのだろう。おれもそう思う。誠実になれたことがあっただろうか。優しくすることは出来る。可能だ。だけど優しさとは結局独りよがりなのだ。優しくしたり、優しくされたり、いつか心が鈍くなって欺瞞になったり打算になってしまったらどうしようと思う。そんな関係性のことを友情だとか愛情だとか呼ぶのだろうか?

 そして、そうした考え方が決定的に間違っているのは分かっている。分かってはいるんだよ。優しさとは、最初には自分自身にこそ与えなければいけない。自分に優しくして、自分のことを肯定することのできない人が、他人のことを肯定できるわけがない。だから優しさはどうしても必要なのだ。

 「誠実」という言葉ももう陳腐になってしまった。陳腐というか、大切にされなくなった。だからいまさらあなたには誠実でいたいとかのたまっても信じてもらえないかもしれない。だけど、だけど、これだけは本当のことだ。あなたには誠実でいたい。

 

 夜明けが来るより先に部屋にきて泣き腫らしていたあなたや、愛情を示すことができずに号泣して罵り合ったあなたのことや、きっとおれには関われない運命のようなものの前に泣いているあなた、あなたや優しさを与えてくれるあなたやいつでも日高屋でまずいウーロンハイをのんでくれるあなたやおれのために会ってくれたり怒ってくれるすべてのあなたたちに誠実でいたいのです。だからおれの泣き顔を見てほしいと思う。不細工な顔がもっと腫れてしまっていて、見るに堪えないようになっていると思う。だけど見てほしい。もしかしたらこれも誠実さなのかもしれないからだ。

 

ブコウスキーへ

 ほうじ茶を飲んでやろうとしてマグカップに手をつけると強烈に生魚臭いのでどういうことかと思った。夕方にやっこさんが鮪と鯛をミンチにしておれがロシアで買ったマグカップの中で掻き混ぜていたのだ。マグカップの中に生魚のミンチをいれるな。それは結局ネギトロになってチャーハンの上に載せ、軽い晩飯になった。

 このあいだの木曜日マグカップの話で盛り上がった。マグカップの話だけで小一時間は流れた。ガールズ・トークに近いかもしれない。実際おれはもう女の子のようになってしまっているのかもしれない。女の子と話すときに感じていた退屈だとか、うんざりするようなあの感触はもう思い出すことができない。

 むしろ反対で、女性のおしゃべりに心地よくなっている。会話に参加したり、参加しなくとも耳を傾けていれば、自身に関する問題点などどうでもよくなって、時間は淀みなく流れていってくれる。時の流れを早めてくれるものが好きだ。男の喋りもいいが、四六時中目的意識の話をしたり議論をしたりすると疲れてしまう。なのでおれは夏が終わったくらいから男と喋っていない。

 おっといけない、女の子なので話の筋を逸らしてしまった。その日れんさんはジンに明るい男性とディナーの予定だった。おしゃべりはおそらく楽しい方向へ運ばれ、何軒か何杯かまわったかは分からないがとにかく彼女は男性の部屋でクラフトジンを飲むことになった。ジンに明るいので、当然種類も豊富だ。角の立った氷、ウィルキンソンの炭酸、パイル地の絨毯、抑えられた照明、などだ。

 おしゃべりの肝というのは、この男性がジンをマグカップで飲ませたことにある。それから、そんなことはあり得ない、「ナシだ」ということになった。たしかに。マグカップというのは容易にあどけなさ、さらには稚拙さと結びつくだろう。あたりに漂う実家の香り、学習机のヒノキの香りだ。一人暮らしの男はなぜマグカップで酒を作ってしまうのか?

 

 f:id:nayuttttttt:20201023193914j:image

出典 : 論理ちゃん(@ikil_kiLLa_)

 

 川島と久しぶりに会った。相変わらず文章を書いてはいろいろな賞レースに応募している。この間のは一次選考に残ったらしい。小説とは、途方もない。おれは一度寝たらそれまで書いていたものへの情念を忘れてしまう。川島へそれとなく尊敬の念を伝えると、僕はフィクションしか書けないんだと言っていた。そんなこともあるのかと思ったが、そちらの方が都合よく行くことはある。おれがもし一度だけ結婚をすれば今後一生おれは一度だけの結婚を手を替え品を替え語っていくしかないのだが、小説というフィクションなら、他の人生を想定することも可能だからだ。単純に話の筋道が増える。

 おれはブログも小説も好きだが、ブログは女が書いたもの、小説は男が書いたものが好きだ。明確に好みは違う。

 

 まず男が書くブログはどうしても格好が悪い。よくない方に力みすぎているなと思う。自我を発散させようと躍起になりすぎて、まずは共感をさせてくれよと思う。女の書くブログはいい。書き殴ったようなものが好きだ。あーー!!最悪ーーー!!無理ーー!!みたいな感じで書かれている文章は最高だ。そして言いたいことしか書いてないし本当のこと以外ないからいい。キューバのクソ暑い夏でも断水しない、国営ホテルの中庭に作られたオアシスのようなみずみずしさだ。

f:id:nayuttttttt:20201023200408j:image

 それについて山本さんが言い得て妙なDMを送ってきた。山本さんと先月下北沢で飲む約束を取り付けていたのにおれが寝坊して2時間相手を待たせた結果帰らせてしまった。山本さんは27歳の男性だ。おれは許されている。まだ許されているのだ。

 

 おれはおもしろいブログを探し求めている。ブログのいいところは、おもしろければそれでいいということだ。小説もそうだったはずなのだが、今ではエンタメや教養の類に改悪されているのでいちいち小難しいことをダラダラやっている。「特に優れているな」という小説は、たとえばミシェルウェルベックのように愛・セックス・フランスといったテーマを反復しながら、哲学や教養のエッセンスで装飾しているようなものだ。

 ウェルベックを読んでいると彼は本当に文学を馬鹿にしているんだろうなと思う。文学みたいな素養は彼の小説に頻出するが、それも露悪的なやりかただ。彼が執着している単純な主題(愛など)を覆い隠すためにペシミスティックな副題を用意しているだけだ。こういうのはかなりブログでも使える。

 

 

 スノッブなのが気に入らないという人も少なからずいるらしい。スノッブってなんだ?スノッブってなんなんだよ。おれが屋上で「その辺だとロバートグラスパーが好きですね」と答えたらそういうスノッブなのは嫌いなんですよねと言われた。そのとき初めて、音がいい / 悪い以外の要素で音楽を評価する人もいることを知った。アホか。それと、音楽を評価する人間は病気だ。世の中には音楽より先に評価されなきゃいけないものがたくさんある。音楽を聴いてスノッブかどうか考える暇があったら集中して音を聴けよと思う。あまりにもリスナーとして不誠実だ。

 実はさっき最後まで書いたのに保存されていなくて全部消えたのでいまこの文章は二回目だ。かなり辟易してきた。スノッブだから嫌いというのはまるで説明がつかない。音を聴いていないからだ。どうせなにかのインタビューを読んだんだろう。

 その必要はないのに、何かを嫌いたがるやつが多すぎる。なにかを嫌って、なにかを信仰して、信仰すら自分のアイデンティティにしようというわけだ。要素だけだなと思う。要素人間だ。こういう人間は嫌いだ。どうして嫌いなんだろう?まさか自分が嫌われる側につくなんて予想していなさそうだからだ。

 

 最近すごいことに気付いた。二日酔いなどでムカムカする時怠いのは、呼吸をちゃんとしていないからだ。これはまだ誰にもいっていない。みんなにだけ教えてあげる。ちゃんと呼吸をすると具合が良くなる。いや、本当にみんな酸素が足りてないんだって。おれは人が老いたり病気が悪化したり死んだりするのも呼吸が乏しくなるからだと睨んでいる。これで二日酔いもなにも怖くない。

 文章においてセックスの描写は重要なファクターだろう。なぜいつの時代もだれの本にもセックスが書かれているのか?という疑問もあるが、それを考えていては不能になってしまうし、赤ちゃんが産道からではなく培養液から誕生することになっても、やはりセックスは神聖さ、あるいはカルト的なものに置き換わって存在し続ける。好きな性描写が、好きな作家に繋がるだろう。おれはとびきりエロい白人が巨根の黒人に嬲られているようなのが好きだ。嘘だ。あまりそういうことを自身に投影したくないので、フィクションめいた書き方が好きだ。

 全然やらなくなってしまった。やはりおれは女の子になったのかもしれない。そういえばこの前友人に紹介された同い年の男性とエロいことをした時から、脳味噌が女の子みたいになっている。挿入はしていないし嫌だが、次はわからない。だからもう会いたくない。ベッドシーツがゆっくり汚れハリを失うように、不可逆に性衝動は萎えていく。ような気がしていやだ。

 当たり前にヘテロセクシャルだと思っていたおれ自身もなにも信用ならない。女のことばかり考えていたいのだ。雲行きが怪しくなれば酒を飲む。それも限界に近づいてきた。

 その彼のブログだ。おもしろいブログだ。いつもよりどうでもいいことばかり書きすぎた。じゃあな

 

 

 

 

 

Â