軟体動物の観察

 

 

 机の上にコーラのボトルがある。花瓶の右側にだ。牛皮のブックカバーに包まれた本と手帳、リップクリーム、ロキソニンの一番効くやつ、ピルケース、耳かき、ワイヤレスのマウス、去年貰った手紙、それらを在庫処分セールで買ったデスクライトの光が照らしている。コーラは午前中にハンバーガーと一緒に飲み下し、まだ半分残っているが手をつけていない。奥歯が痛くなったからだ。そのためにロキソニンの一番効くやつが机に置かれている。

 いま空腹を感じていてコーラを飲みたいが、そうしたらまた奥歯が痛み出すのでそれができずにいる。ロキソニンは一番効くやつで一番高かったのだが、鎮痛効果が現れるまでに数時間を要した。部屋のどこにいてもコーラは机の一番目立つ位置にある。

 つまり、痛みを我慢するのであれば、コーラを飲んでもいいということだ。

 

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(出典) : team★cpu @cputeam 

 

 快楽と苦痛という二つの感覚があって、人間はそのどちらかを信じているとおれは考えている。快楽を信じている人間は気持ちいいことのために働くし、苦痛を信じている人間は、いま苦しいことがまさに、自分の存在の証明であると考えている。その場合、おれは後者だ。

 快楽は人間の外にあるが、苦痛は人間の内側から産まれる。これは言い過ぎたかもしれない。おおよその「痛み」は、身体から産まれる。これは正しい。身体があるから痛みが生まれる。痛みは、自身が存在していて、生きていることを証明してくれる。だからおれは苦痛のことを信用していて、それに身を任せている。

 

 ロキソニンの効きが悪かったから量を倍にして飲んだら一気に眠くなってしばらく寝ていた。おれって雑な仕掛けのおもちゃみたいでかわいいなと思った。眠くなる副作用のある薬を倍の量飲むとかなりねむねむになる。ボタンを押すと音が出る。ハンドルを回すと発光する。水をかけると壊れる。

 

 高田馬場にある蝎子王(ヤンシェズ)、というマジでクソうまい中華屋で、うまいんだけど辛味が強すぎて眩暈のような感覚や、背骨がぐらぐらする感じに襲われながらパクチー入りの豚耳を食べているときに、「軟体動物の方が優れている場合もあるのかもしれない」と思った。脊椎の存在を恨めしく思ったことが幾度もあるからだ。

 イカやタコはこの店でどんなに辛い火鍋や四川麻婆豆腐を食っても、背骨がないのでぐらぐらしたりしないんだろうなと思うとそれが羨ましい。それとベッドに横たわる際、背骨はどうしても邪魔になる。猫にも脊椎はあるが、人間に比べて流動的で自由のきく身体の設計をしているので、猫が寝ている様子は水風船のように愛おしい。イカやタコならもっと気持ちよく寝れるのではないだろうか。ベッドに身体を満遍なく伸ばして、意図的に重力に押し潰され、平べったく寝てみたい。

 

 

Veroneさんにツイートしてもらった。

 

 統合失調症の人間が10秒ごとに話す話題を変えたり支離滅裂としか言いようのない理論を展開することを連合弛緩と呼ぶらしい。最近はずっとその連合弛緩というワードが頭から離れない。Veroneさんは「ハイパーポップ」という音楽ジャンルの比喩を用いて見事におれの文章を言語化した。それと同時におれが書くことは連合弛緩的だなという自覚が芽生えた。

 「ハイパーポップ」や連合弛緩というのは現在流行っている可能性がある。Tiktokが好きでよくみているが、あの、動画が無限大に関連づけられていって質の貴賎に関わらずスクロールすればするだけ、訳の分からないコンテンツが発生しては忘れられ、脳みそにトリップ効果をもたらすようなスピードは、まさに連合弛緩だ。

 シミュラークルの氾濫、というレベルではない。それはかなり魅力的だ。

 Tiktok内で誰かがオリジナルの音源を作り投稿する。過剰に性的なイメージを発明し、情欲を煽るダンスに変換して投稿する。それらはノータイムで評価され、まったくの他人たちがその素材を用いて微妙なアレンジを加え投稿する。それがパクられる、また真似られる。それらの意趣を組み合わせまったく別の動画が産まれる。それをパクる。もう誰も、なにがオリジナルなもので、それをどこのどいつが作って、どれがどれの模造品かなんてことは忘れているし、そういうことに興味を持つものは1人もいない。オリジナルを発明したとされる人間もハナからネタをパクられることなんて気にしていないし、パクられることは喜ばしいことだと考えているし、積極的に剽窃を奨励している。そして、実際にはオリジナルなものなどは最初から存在しない。

 

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 東浩紀が導いたデータベースとシミュラークル消費の二層構造でこのシステムを説明することもできるが、Tiktokは現時点でその生産と消費のスピードを限界まで加速させた文化だといえるだろう。つまり現代の人間は全員最強のオタクになったということなのか?そこら辺はよくわかってない。大学に4年もいるのにこれを読んだのは最近だ。恥ずかしい。

 

 おれもそうだが、そうやってわざと意識を散漫にさせた状態で暴力みたいな情報の遷移に触れるのはかなり心地いい。2000両編成の地下鉄が鼻の先を200km/hで掠めていくような、焦がれがある。

 

 

 ところで動物化するポストモダンの中で斎藤環という精神科医の研究が引用されていた。それによると、男性のオタクは、アニメの美少女に性的な欲求をぶつけているが、それは現実世界の女性に対する抑圧された性欲とは切り離されていて、実際には、オタクは自らのペニスをアニメの美少女に投影している(!!)らしい。ペニスへの執着がアニメの美少女を実体づけているらしい。これはどういうことだ?

 おれはかなり頭が悪いので文章で急に形而下と形而上を行ったり来たりされると途端に訳がわからなくなってしまう。基本的に脳が文系向けにデザインされていないからだ。なので斎藤環について調べてみた。ラカンやフロイトの研究をしていた。

 

んー、

 つまり、男性のオタクは去勢されたファルス(男性器)を画面の中の美少女に夢想しているということなのだろうか。男の子が自分のファルス(男性器)に自意識を見出し、母親と姦通したいと望むが、父親による罰を恐れ、自らファルスを手に入れることは諦める。それで去勢は成立するが、手放したファルスを仮託する場所を求め、オタクはその役割を美少女に期待している。ということなのだろうか。

 だいたいフロイトって「男性器」で全てを解決できると思っているのか?こいつキモすぎるよな。割と無理。いくらなんでも無理がある。つまり女性は男性器を剥奪させられたいきものなのか?最初からマイナススタートのいきものなのか?

 そのことについてコボリに質問してみたが、まだ返信は来ていない。半年ぶりにする連絡がこれだ。

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 だが個人的にはかなり納得がいっている。まあこういった論理を当てはめて納得できる出来事が多すぎるということだ。つまりかなりキモいが、反論はできないという状況だ。

 

 デフォルメされた裸の少年 / 少女のイラストとかを想像している。そいつらが男か女なのか判断できるのは股についている豆みたいな男性器がついているかどうかにおいてだ。そして、おれはこのイメージが持つ意味をずっと前から反復していたような気がする。 

 

 最初に書いたコーラについての話に戻る。おれは苦痛を信仰しているが、いつも痛みを感じていたくはない。一時的な逃避、連続性の遮断、ある意味での仮死状態を切望している。それによって苦痛の神性が担保されているともいえる。

 自分のことについてなので、おれが他の男より性的に早熟で、女と寝たいという気持ちが強く、男性器によって生きる苦痛を少しでも和らげたいという欲望がある時期から絶えず強烈に訴えかけてくることは自覚している。流石にそれくらいは分かる。ある程度コントロールすることもできる。コントロールしないこともできる。重要なのはそれが性欲というかなり曖昧な概念によって沸き起こる生理現象なのが納得いかなかったことについてだ。

 性欲とはなにか?おれはまず最初に排泄欲だと考えた。人間は食欲、睡眠欲、性欲という3大欲求によって体系づけられているという性教育には昔から懐疑的だった。言い方を少し換えるべきだと思った。つまり、性欲ではなく排泄欲というふうに。人間は血と肉と糞が詰められたソーセージのような物体で、それらを摂取したり排泄しなければ死んでしまう。排泄とはケガレを掻き出す行為だ。民俗学的には排泄物がケガレたモノとされるようになったのはつい最近のことだが、いまそれはどうでもいい。我々は一般的に精液を含む排泄物をケガレたものだと考えていると同時に生命維持において不可避的に発生する産物だという認識もまたある。性欲とは、セックスがしたいとかじゃなくて、排泄行為全般に対する緊急的な衝動なのではないか。

 おれは精液を排出することにに大半のリソースを割いているので何度も奴隷のようにオナニーをするが、これは排泄欲が高いからである。と考えていた。しかしこれでは女性に対する射精の代替物がなにか説明できない。それはわからない。

 

 その検討の中で、おれが男性器を信仰しているという事実に気が付けたことはかなりラッキーなことだ。フロイトに倣えば、ファルスを信仰しているとも言えるが。この男性器信仰は、おれの生活の中でもっとも優先して処理される事柄で、おれ自身が無意識に可愛がっている部分で、またアイデンティティの中核を担っている部分だ。かなり個人的な感覚なので、女性と完全に切り離して論じることも可能だ。排泄がどうのこうのとか、まったく関係ない。おれはかなり病的なレベルで自身の男性器に執着しているのだ。ヤリモクがどうのとか前ブログで書いたけどあれも錯覚で、いかなる他者の介入も許さないほど男性器のことを信じていて、その信仰エネルギーの余剰物としてこの文章などがある。

 この発見は劇的だ。

 

 

 海老があまり好きではない。伊勢海老やロブスターのレベルでも割と敬遠したい。海老の剥き身を食べていると喉の渇きにはじまって全身が干からびていくような感覚があって、肉の繊維の隙間に舌先を持っていかれる気がするからだ。この話をするとそれはただの甲殻類アレルギーだと言われる。イカとかタコとか海老とか今日は妙に磯臭い。あと、甲殻類、特に海老を食べている女性を見るとゾッとするような美しさを見る場合がある。

 おれは、海老は陸で蠢いている昆虫と同じものだと思っているので、そんなカブトムシもどきを女性の細くて弱々しいが冷徹で容赦のない両指がてきぱきと殻を砕き、関節を切断し、カルシウムに包まれていた個体をただの食べやすい肉のかけらに変えていく様子を観察するのが好きだ。こういうときの女の手は容赦がなくて好きだ。でも食っているのはカブトムシもどきだ。グロテスクな生物をグロテスクな笑顔で食っている。それもまあ悪くない。絶対にそういうことは言わないけど。

 あとフェラチオが上手な女性は天才だ。フェラチオは練習したらどうにかなることではない。もともと才能があったのを経験で開花される場合はあるが、フェラチオの才能がない女性はいくら風俗やパパ活で中年に仕込まれてももはやどうしようもない。幼年期から高校卒業までの間に父親に生理的嫌悪感を抱かずに育ってきた女性はフェラチオの才能がある傾向が特に高い。これはフロイトもついに生涯発見できなかった指摘だ。フェラチオが上手い女性はみんな父親のことが好きで、父権的なものへの従属心がある。これは彼女らも男性器を信仰していると言えるのだろうか?

 内山が安位カヲルのポルノを観たと連絡してきた。つまらなかったそうだ。それはそうだろう。

 

 2/3ナホちゃんと「花束みたいな恋をした」を渋谷で観た。観終わってからほんとうになにも心に残らない映画だった。TOHOシネマズを出て2秒後にはIKEAのシナモンベーグルのことについて考えていた。さっぱりしてむしろいい。なんだかずっとうっすらバカにされている気分だった。好きな作家がどうとか好きな舞台がどうとか列叙法のように要素を羅列させて繋がっていた人間が分裂していくのは当然だし、お互いにどの部分を愛していて、せめて顔が好きだから好きだとか、そういうふうに明言している描写が一度もなくて、ポップカルチャーをひっそり見下していて、永遠に不感症のまま減衰していく恋愛の映画だった。“愛とは自らが一歩踏み込むもの”で、そこにサブカルチャーやらなんやらどうにもならんカスみたいな舞台装置がどう作用しようが意味がない。次回はそういったことについて書く。ではまた