離岸流に乗って

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「花が綺麗だね」

「花はいつだって綺麗ですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

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 夕方は瓶を探すために費やした。

 

 KALDIには大まかにわけて3種類の瓶がある。ワインの瓶、炭酸飲料の瓶、料理に使う様々なソースの瓶。今回欲しかったのは、片手でも馴染むくらいの大きさで、ある程度は縦に長いものだ。また、これが最も重要なポイントで、拾ってみたくなるようなデザインであるかというものだ。だから私はわざわざ神経質ぶったツラで、誰かが拾ってくれそうな瓶を選んで買った。誰かのために買った。最後には、白ワインかアップルサイダーのどちらかで悩んだ。

 ワインが入った半分透明のガラス瓶は大きかったので、もし砂浜に落ちていても、わざわざ拾おうと思われないかもしれない。だからアップルサイダーにした。

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 お久しぶりです。

 この間、待ち合わせが1時間ほど発生したので書いてアップしたブログはつまらなかったので非公開にした。竜平くんとシェアハウスをはじめてから、思ったことは全て彼に伝えていたら書きたいようなことが何もなくなった。なくなって、暗い瞬間にも立ち会わなくて済むようになった。人と住空間を共にするのにかなり適正が高いことがわかった。

 

 最後に更新したブログは自分でもよく書けていると満足しているし、そこから続くような言葉が思いつかなかったからもういいやと思っていた。それよりも先立って生活を自立させるための方策を固めておく大事さがあり、バイト先の社長に従順に頭を下げながらエントリーシートの「学生時代に最も力を入れたこと」欄には過剰に性急な筆致でなにかうわごとを書いている。目下のところバイト先で社員になれたらラッキーだなとか考えていて、次に社長がロイヤルホストの日替わりランチを奢ってくれるタイミングで直接頼んでみようと思う。

 4月からの新しい生活で新しい友人はできたが、私をすり抜けていった人たちが多すぎたので結果的にまだマイナス状態だ。すり抜けていったというのは部署の配属先が長野県で固まりそうなコバヤシとかもそれに含まれる。別に友人じゃなくなったとかではない。同級生はみんな社会人になったので(こういう表現は悲壮感がある)、ひーひーいっている。

 疎遠になるというのはどういう状態かというと、私は想像するのが難しくなることじゃないかと考えている。その人の生活におけるディティールを想像することが。前使ってた食器は今も部屋にあるのか、カーテンがどんなふうに風になびいているのか。とか。だれのことを考えているのか。怪しい話につられていたりしないか。騙されていないかとか、不安になれるのは想像の材料になる情報が豊かなことの証拠で、生活は潮の満ち欠けみたいに波の形を描きながら関係性の輪郭を削って形を変えていくわけだから、いずれ想像の向こう側にいた人は別の誰かになる。私も誰かになる。知らない人になる。吉祥寺に住んでいた頃の自分はもうどこにも居ない。さっきハモニカ横丁を冷やかしに行こうと思ったらあのカスみたいな酔っ払いどもはどこにもいないし、ほとんどの飲み屋は灯りが消えていた。ハモニカ横丁は通路が狭いので暗さが相まってまるで小学校の渡り廊下みたいだと思った。私に許可も取らず勝手にオープンしたハンバーガー屋にデブたちが並んでいて、山ほどのテナントが潰れていた。

 

 映画の主人公みたいになりたい。実際に私は自分のことを映画の主人公だと思っている。オムニバス映画で終盤にぶち殺される役がいいなと思う。ジャンキーの加瀬とかヤリマンの先輩とか未だに小説を書いてる川島とか日高屋とか花とか拳銃がでてくる映画だ。私は飲酒運転をして山道で事故って、後続のセルシオから降りてきた高校生の集団にナイフやガスバーナーでぐちゃぐちゃにされて死ぬ。助手席にはさっきまで誰かが乗っていたがそれが誰だったか死にかけの頭では思い出せないし、だんだんと世界が黄色に染まってきて気持ちいいからもうどうでもよくなっている。

 それからしばらくして、誰かが血だまりの中にまた戻ってくる。痙攣している私をみて笑って、キスをする。白いブラウスを着ているような気がする。次のカットに移り、加瀬がサラダボウル山盛りの幻覚サボテンを食って言語が意味を為さなくなった領域でバロウズとレスバトルしている。

 

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 相模湖のほとりの白いソファに座って正気を失った目をしながらXTCの『Making Plans for Nigel』を聴いてるときとか、主人公みたいだなと思う。

 XTCは、出会うのが6年遅かった。ティーンの頃もしXTCを聴いていたら、その後の人生が決定づけられていただろう。マスターピースとなり得たアーティストだ。最高のロック・ミュージシャンだ。カラカラに乾いた冬の枯葉のように頼りなくてささくれだったギターサウンドが神経のナーバスな部分に刺さる。まともな人間になんかなれやしないってガキがよく考える逃避が微妙に噛み合ってないグルーヴになっていて、なのに悲しくなるくらい根拠なく爽快なメロディがずっと繰り返されている。コードに出鱈目なテンションとリズムで引っかかってくるシンセサイザーサイケデリックと陶酔感だ。疾走感があるのにどこに突き進んでいるのかわからないスネアドラムと休符が最高だし、闇雲だ。

 少年のような音楽だと思う。青年のような見た目だけど中身は幼稚なまま

 

 

 幸運にも私に選ばれたアップルサイダーは一息に飲み干さなければいけない。空になった瓶に手紙を入れるからだ。知らない誰かに向けてあるお願いを書いておこうと思う。それをしっかり封印して、瀬戸内海にでも流そうと考えている。瀬戸内海なら、広島から流したとして、香川県の誰かが拾ってくれるかもしれないから。実はどんなことを書こうかというのは決まっていない。ただ拾ってくれた人が困るような難しいお願いを書こうと思う。読みやすいように綺麗な字を使って書く。SARASAの0.5mmボールペンを使って書く。

 咲月が昔、わたしにはやりたいことがあっていまは海に瓶を流すようなやり方でしかやれないけど、がんばりたいと考えているんだ。と教えてくれた。

 海に瓶を流すようなやり方って具体的にどういうことだったのかどれだけ考えても分からなかった。想像をずっとした。想像したが、浅瀬を水平線に向かって肩の下くらいの深さまで進んでその地点から瓶を流したとして、波はそれをすぐにもといた砂浜の方へ引き戻してしまうだろう。おそらく何度試しても。何度想像してもそれは変わらない予想だった。

 石垣島で溺れたことがあって、離岸流が幼い私を沖に流した。その時弟と一緒に泳いでいて、弟はというと私の背中によじ登って1人だけ平気な格好だった。そのせいで息継ぎができないので意識が途切れ途切れになって、走馬灯をみた。まだ全然生きていなかったのでまるでクソ映画のような貧弱な出来映えだった。この間みた2度目の走馬灯はそれより豊かになっていて、楽しめた。離岸流をうまく使えば手紙の入った瓶を沖まで流すことができるだろう。

 それでなにか変化があればいいなと思う。

 それと同じくらい、そんなことよりもっと簡単なやり方で他人と繋がっていれるだろうが。とも思っている。

 人と繋がっていたい。それがなによりも難しくて、私だったらそんな不気味なもの拾わないだろう。拾って開けてインターネットでネタにして投げ捨てるかも。だけど人と繋がっていたくて、誰かがそう思ってくれる人になりたいと努力はしている。

 努力はしているんだよ。

 いまは、その誰かというのが誰なのかが思い出せなくて、そのために離岸流に乗っていく以外のやり方がない。ないが、もう溺れたくはないしな。さて