マサトシへ

 ママンの親父、つまりわたしの爺さんにあたる人物はアルコールを愛していた。その愛し方があまりにも過激だったために、結局胃をすべて切ることになって、いまは酒を一滴も飲んでいない。だが爺さんは今でも酒を愛していると思う。アルコール中毒とはそういうものだ。

 

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 五橋という名を冠した銘酒が爺さんのフェイバリットで、実際にそれは日本酒のなかでも抜きんでて素晴らしい。地元の酒で一番有名なのは獺祭というもので、これは今どき女子大生なんかに人気だが、爺さんもわたしも硬派を謳っているから、そういうブランドものからは距離を置いている。

 実際に獺祭なんかを美味しく飲むにはモッツァレラにたっぷりオリーブオイルを塗ったカプレーゼや、その日にあがった白身魚を薄く切って小皿に盛って、それを少量口に運んでは霧島製のロックグラスをゆっくり傾けるようなやり方でないと格好がつかない。爺さんが愛していたのはそれとは無関係の、出口のない放物線を描くような、あけすけにいえば一升瓶の中身をそのまま胃の中に移し替えるようなやり方だった。これはたしかに無頼漢の雰囲気を帯びているものの、必ず身体を壊す方法で、際限がない。

 爺さんやわたしと、フルーティなお酒を嗜んでいる都会派を隔てているものは、そういう手段と目的の逆転にある。

 

 ちなみにフルーティな味というのはバルで目尻の垂れた女子大生相手に優男が腰をくゆらせながら口説くときに使う文句で、これは軟派だが大変人気のあるフレーバーなのでよく売れている。先の獺祭を筆頭に、出羽桜、風の森、川中島などがうまいとされている。隣の席では美大生のような風貌のガールがいぶりがっこをつまみにして鶴齢が入ったお猪口をくいくいしている。冷ややかな視線を時折女子大生のほうに向けていて、フレアしているジーンズの裾口からは軟派者への強い反発心が覗いているが、結局飲んでしまえばただの酒なのだし、つまりはフルーティな方がコミュニケーションツールとしては優れているのだ。そんな光景もこの状況になってから久しく見れていない。

 

 飲むことを自分のアイデンティティだと捉えてしまっている人間なら、一度は人生で飲んできた酒の体積を量ることがあるだろう。わたしはビールに換算してバスタブ5つ分だった。案外少ないと思うだろう。

 中島らもなら幅5・長さ7・深さ1メートルのプールと答えた。チャールズ・ブコウスキーは、彼はウイスキーの愛好家だったのでもっとだろう。そういった人間たちは揃いも揃って酩酊のなかを泳ぎ、こちらの岸から向こうの岸までを繰り返し永遠にクロールし続けているが、その精神力と体力には尊敬の念を感じざるを得ない。

 ハードドランカーたちの最も人間離れしている点は、決して休まずグラスをお代わりし続ける胆力にあって、杯につがれた酒への異常な執着をもってしてアルコール入りのプールを完成させる。アル中であるということはつまりとてつもなく身体が丈夫であるということに尽きる。爺さんはついに持ち堪えられなかった。彼はどれだけ巨大なプールを作ったのだろうか。

 いまだにわたしが酒は飲めれば飲めるやつほどかっこいいとか考えているのは、その肉体資本の屈強さにおいてであり、いいテイスティングのためにいいワインを調達したりいいおつまみを作れたりする能力のことではない。それとこれは全く違う領域の話で、いまだにくたばっていないアル中というのは、自らの身体を鞭でズタズタにし、睾丸を切り落として神への忠誠を誓うロシア正教分離派のようなストイックさを内包している。

 

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 なぜそこまでして飲むのかい?という当然の疑問もある。なぜだろうか。なぜだと思う?『詩人と女たち』においてブコウスキーがこう答えた。

 

わたしは酒をグラスに注ぎながら、これこそが飲酒の問題点だと思った。何かひどいことが起こると、忘れようとして酒を飲む。何かいいことが起こると、お祝いだと称して酒を飲む。そして何も起こらないと、何かを起こそうと酒を飲む。

 

 これこそが飲酒のテーゼであり、歴史上覆ることのなかった至上の命題だ。ブコウスキーはアルコールのために生きているような見事な逆転を生涯演じ切ったが、彼の卓越しているのは絶妙なバランス感覚であり、酒の奴隷になりながら酒を奴隷にするという離れ業をやって死んだ。

 わたしはブコウスキーのオタクなのでかれの作家としての功績を語っていくとこのまま話が終わってしまうが、こういう点が同時代のバロウズやケルアックやギンズバーグとは明確に異なっていた特徴であって、彼は本物のパンクスだったのだ。彼はドラッグを饒舌に論じることはないが、ドラッグによって変容する自己と世界を誰よりも客観的にみていたし、また稀代のリリシストでもあったからそれをフロウに乗せて作品にするのが誰よりも上手かった。そして誰よりもひねくれ者だった。文学のことが大好きで勉強家なのに作家と謳われていたやつらのことを全員バカにしていて、低俗なことばかりやっていた。さすがに文章が上手すぎるからそんなポーズを取っていることはみんなにお見通しで、それらへの葛藤が節々にのぞく様はキュートだとすらいえるだろう。

 

 なにが言いたいかというと、わたしはパンクスが好きだ。

 

 だがパンクスのことなどよく知らない。音楽でいうパンクというものにはハナから興味ない。ブコウスキーのことについて考えるときに頭のなかで流れる音楽は、ロックではなく、ジャズだ。ジャズのなかでも、チャールズ・ミンガスのことばかり考えてしまう。

 チャールズ・ミンガスというのはどえらいジャズプレイヤーで、彼も間違いなく歴史的なパンクスだ。ミンガスは太くて黒くて巨大な指を使ってウッドベースを弾くが、そこから生まれる音は怯むほど繊細で、聴き惚れていくとたちまち鬱蒼とした気分になる。情緒を音に出力する能力に極めて長けていて、リスナーはミンガスの躁鬱に犯されるのだ。

 彼は支配体制への反抗を自己破滅と徹底的な暴力で表明していて、結局それは病気で指が動かなくなってからも止まらなかった。彼も驚異的な体力を持っていた。

 

 思うにパンクスには種類があって、自らを破滅させるか、周囲を破壊させるか、どちらかのパターンになるのだと思う。このブログにたびたび登場するが、川島は自己破滅型だ。

 川島はわたしの大学の同級生で、同じジャズのサークルに入っていて知り合った。わかりやすい無頼派のファンで、日本の作家ばかり読んでいる。作家を志しているらしく、卒業後はフリーターをやりながら新人賞に応募している。大学で作文をする講義があって、一度だけ川島の書いたものを読んだことがある。有名なエッセイストが講師で、彼女からの評価はまあまあだったと思う。ちなみにわたしの書いたエッセイはかなり褒められた。嬉しかった。生前中島らもと交友があったらしい。鼻が高くなった。こういう勘違いのせいでわたしはいまだに最低の居酒屋で一番最低の酒を飲んでいる。川島は大学で数少ない友人で、将来性のあるハードドランカーだったが、そのために一度喧嘩になってその勢いで彼を血まみれにしてしまったことがある。彼は泣いていたが、坂口安吾とかが好きならばお望みの破滅だし、むしろ死にかけている自己を顧みて感謝してほしいとすら思っている。だが彼は翌日ケロッとした顔をしてスタジオに来ていたし(サックスを吹いていた)、青森の八甲田山という山で自殺を試みてもやはり晴れ晴れとした顔で生き返ってきた。彼のパンクスとしての素養は悔しいが認めざるを得ない。

 

 わたしはそういった屈強な男たちが破滅の階段を降っていく様子を眺めるのが大好きだ。わたしにはその才能がないからだ。飲んだ次の日は元気がないし、バイトの前日には控えるようにするほどつまらない。アルコールに適性はあるが、才能はない。ただ、アルコール依存でよかったとは思う。分解酵素を持たない連中はみんなマリファナや処方箋ドラッグに興じていて、前者はともかく(ともかくではないが)、デパスマイスリーという名前しか知らない、どんな形状なのか知りたくもない錠剤をガリガリ食べている。

 最悪なのになるとブロンに沈んでいく。アルコールのプールは心得があればそりゃクロールでも背泳ぎでもやれるだろうが、ブロンでドロドロになったプールに飛び込んだ人間がどうなるかというと、窒息して沈む。醜い。口臭がする。便秘になる。だから酒が永遠に飲めるというのは幸福でもあるのだ。もし自分がペドフィリアだったら?想像してみてほしい。もし自分が幼女に性的な興奮を覚えたなら、それは地獄だろう。生きているだけで犯罪性を帯びてしまう。

 

 もっともアル中の本人たちに破滅願望はないだろう。“ある“から”やる”だけだ。論理から逃れようとしているのに、安居酒屋で実存性について悩む必要がどこにある。

 

 わたしがちびのころ、爺さんにはまだ胃がついていて、家に遊びにいくといつもヤカンで五橋をあたためていた。高校野球をつまみにやるのだ。いつも酔っていた。ほんとうにいつも酔っていた。爺さんは起きている間ずっと真っ赤な顔をしていて、皺だらけで、目がトロンとしていたので、幼いわたしには異星人のように映っていた。「じいちゃんは人間じゃない」と 言ったらしい。爺さんは未だにそのセリフを憶えていて、たまに帰省すると嬉しそうに教えてくる。かなり幸福なのだと思う。

 

 パンクスへの憧れはとめどない。彼らは存在しているから酒を飲むし、そのせいで精神と肉体は常に分裂寸前だが、それをなんとか繋ぎ止めるために飲む。わたしはそういう痙攣に憧れているので、つまりこんなものをリビングでつらつら唱えているわけにはいかないのだ。ワインを買いに行く。じゃあな

 

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