ツイッターvsインスタvs女

 

 顔がいい女にインスタをフォローされたので、現代人らしく、フォローバックを急ぐ親指に「待て」の合図を与え、投稿やハイライト(ストーリーをホームに表示できる機能)をザッピングした。彼女が僕の気に食わない政治信条やアフィリエイトマーケティング、その他、写ってる男のセンスが最悪すぎるとか、タグに#OOTDだとか#ファインダー越しの私のなんちゃらが使用されていないのを確認した後に、ゆっくりと、確実にフォローボタンに触れた。そこまでするのには理由がある。ここまでグチグチ言っておいて嘘くさいんだけど僕はインスタが大嫌いなので、ただでさえ不快な数百人のストーリー投稿の(隣の家がリフォーム工事呼んだ時よりも煩わしい)ノイズにこれ以上苛まれたくないからだ。


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 インスタのアカウントはほぼ義務感によって消していない。かといって僕の投稿のペースはそこそこだと思うし、ストーリーで誰も興味ないだろうジャズの新譜を褒めたりもする。初期アイコンのまま投稿は一切やらないけど誰よりも早い順番でストーリーを見てくるとこで我々に一定のプレッシャーを与え続けてくる無人監視カメラみたいなアカウントの持ち主とはわけが違う。個人的な感想を述べると、その「無人監視カメラ」みたいなやつの方が自意識のレベルは一段階高い。インスタをいわゆる病理的な理由で使っている。毎回きめ細かい投稿をキメてくるタイプのアカウントはいつか削除されるが、無人監視カメラはきっとFacebook社がぶっ壊されるまで居残り続けるだろう。無人を気取っているからだ。僕は彼らに何の恨みつらみもない。

 話がそれた。

 

 顔がいい女についての話題を続ける。僕は今回は顔がいい女についての話をしようと思っている。インスタについてじゃない。昨日かなり適当に書いたブログをツイッターに載せたら(僕はツイッターはかなり好き)数分で女から「あなたの文章はもう死んだの?」と連絡が来て笑ってしまった。が僕はナイーブなので雑な嘘まみれのことばっか書いたことを認め、たっぷりと凹み、ホテルからターミナルに向かう車の中でなにが足りなかったのかを反省し、今日はしっかり書いていこうと思います。なのでまた投稿の10分以内にはラインしてください。

 顔がいい女は最高だ。疲弊していく我々の生活のなかで顔がいい女だけが本当に存在することで、それ以外はイメージである。顔がいいっていうのはそれだけで何かを表現している。最近になって読み始めた村上龍が「美しい女は常に表現している」と書いていたけど顔がいいとはそれ自体が表現なので同じことだ。

 表現とは意味のあることである。顔がいい女には意味がある。哀れなことに我々は何千年も「意味のあること」だけを信仰しているから、顔がいい女は永遠に神様なんだろう。僕はここら辺で書くのを躊躇してしまうが、村上龍は普通に「ブスに人権は無ぇ。ってかブスは女じゃねえっしょ!ギャハ!」といって話を終わらせてしまう。爆笑ものだ。僕はビビリなので「顔が可愛くないからブスって言ってるんじゃなくて、心が醜いだけなんだよ。ごめん」と付け加えとく。さすがの台東区も大雨の中ブスが来たからって避難所の扉を閉めたりはしない。

 僕は心が美しい人が好きなんですけどね。

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 そうこうしてるうちに東京駅についた。今回の旅はおおよそすべてうまくいかなかった。

 

 

 本題に移ります。

 ツイッターが終わることは無いと思う。それに代わるものが生まれてもそれはツイッターだ。人間が発明した良くないもの「農耕、宗教、ツイッターのなかでもタチが悪いのがツイッターだ。理由は金にならないから。インスタはまだビジネス色が強いから落とし所があるっちゃある。逃げ場を失った悪意が正義を振りかざす。正しさだけが正義だ。意味が神である。

 唐突に自分語りをはじめるが僕はツイッターのフォロワーが2万7千人くらいいる。フォローは90人くらいだ。あらかじめ断っておくと、こんな数字に何も意味はない。意味はないがこれが僕の人生で役に立ったことは何回かあった。僕は高校生の時にコピーライターという仕事に憧れていて、今となっては絶対に嫌だけど。その業界の人間がなんかのインタビューで「とりとめもない話をしますけど、例えばツイッター。コピーライトがしたけりゃフォロワーが1万人くらいはいなきゃ話になんないですね」とか偉そうにいってたのを覚えてる。なんでコピーライターになるのに一万人の聴衆が必要なのかはあんまりわかんなかったけど。今ははっきりと分かる。ってかみんなも知ってるだろうけど。つまりフォロワーの多さっていうのは分かりやすく信用に値するもので、権力だからだ。アカウントが個人の王国でフォロワーの数は城下町に住んでる人間の数だ。その中には軍隊もいる。イかれたやべえ奴もいる。

 僕は今のところ2万石高かいくらの領主だ。これは年内にかならず3万石になるだろう。これは単なるゲームだ。どれだけフォロワーを増やせるかの。くだらない。カスだ。高校時代の哀れな僕は「じゃあ逆に1万人いればコピーライターになれるんじゃん!キャハ!!」と歓喜して案外うまくいったのだった。これはただのゲーム。SNSですこし持て囃されたくらいで人生が前向きになるわけがない。まだ仮想現実世界にコネクトできない我々は、結局のところ毎秒何もしなくても汚れていく身体を洗わなければいけない。エレベーターが来なければ歩いて階段を昇らなければいけない。飯を食わなければいけないのだ。好きでもない女を性欲のために口説いて、時にはアルコールを用いて、必死でラインの通知から浮気がバレるなんてことがないようにミジメな細工を施さなきゃいけないんだよ。僕だって早く脳や脊髄を切り離して電解液が見せる夢の中で好きな子と公園のベンチで座ってたいですよ。そうはいかないじゃないですか。だって悪いのは全部ツイッターなんだ。何もかもが悪い。尊厳を全て壊していく。全てが悲劇だ。だって実際に、このブログを投稿したあと、リンクを貼って、適当なことを並べて「ツイート」するんだもの。あとストーリーも忘れてはいけない。

 僕は病理に侵されてなどは全くない。細菌によって活性化する食べ物の一覧と同じだ。 すぐれた拡散力を持っているから、わりかし気持ちがいい。ただタイムラインのせいで醜くなっていく友達を見るのは辛いからね。フォロワーを増やせばいいんだよ。

 あと僕がインスタ嫌いな理由はさっき見に行ったらその女からフォロー解除されてたからだ。イキんな。バーカ。だから嫌いなだけだ。

 

 

すべての男は消耗品である (集英社文庫)

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