明日に形がなかったころ

 名古屋に向かって出発したミニ・クーパーは、海老名を越えたあたりで様子がおかしくなった。

 そのとき運転を担当していたのはおれだった。エンジンの断続的な揺れからはじまって、次第に車体も上下に震え出し、アクセルをすべて踏み込んでも80km/hを超えなくなった。井上はレッカー車を呼ぼうと言い、地頭はどこかに車を停めてエンジンを冷やそうと提案した。

 富士川かどこかの駐車場で小一時間じっとしていたが、ミニの喘息のような不調は回復しなかった。できることは、アクリル板で区切られたフードコートのなかでじっとしていることだ。ソフトクリームを大事そうに持った男の子、ブルブル震える呼び出しタグとうどんを交換している人、天丼と交換している人、餃子定食と交換している人、すべての人がなにかを食べたりいまから食べようとしている様子で、おれは前の晩に届いたメールを読み返していた。さようならとは書かれていない、さようならという意味のメールだった。

 失恋した。

 世界が透明になったのか、自分が透明になったのかしばらく分からなかった。机を囲うアクリル板だけは確かに透明だった。建物の窓から井上と地頭が車のボンネットを開いてなにかをいじっているのが見えた。エンジン不調の原因と解決方法を探しているようだ。原因も解決方法も探す気にはなれなかった。携帯をポケットにしまい、二人のもとへ向かった。どうしようもないという苦笑いを向けられた。おれは透明にはなっていないことが分かったが、世界は透明のままだった。

 美大の卒展に行ってみたかった。毎年それを忘れていて行けていなかった。四年目のおととい、その機会に恵まれたので短い時間ではあったけれどそれらを観た。キャンパスに着いて、その美大にはとても多くの学部学科があって、敷地内の棟すべてに満遍なく作品が展示されていることを知った。とても回りきれなかったから、興味がある日本画と油画と、建築専攻の展示とわかりやすいインスタレーションに絞って回った。

 ヴェロキラプトルの群れを描いた日本画と、グリッチ加工のように引き伸ばされた油画と(RADIOHEADにそんなジャケットがあった)、輪郭を残して無彩色で表情のない女性が、屋内植物園を(たぶん新宿御苑の)背後にして、こちらをじっと見ている油画が特に印象的だった。その中でも植物園の絵は、決して動くことのない椰子の葉がざわめいているような動的魅力があって、あの巨大なガラスドームの生ぬるさを肌で感じた。

 昔に交流があった人たちの作品は、なかった。見落としていただけかもしれない。大学なんてとっくに辞めたのかもしれない。

 野村由美子はシーシャ屋で、来年になったらヨーロッパに行って油画を勉強すると教えてくれた。それから二年後たまたまみかけたツイッターで、中央線のどこかの安アパートで、換気扇の下で煙草を吸っている写真をアップしていた。バーカ。と思った。「バーカ」と呟いてみた。

 あの植物園の画が彼女の作品だったらいいのに。もしそうだったら、パリになんかいかなくても良かったんだ。と思えた。魅力のある画だったからだ。透明な女がこちらを見ている。透明で顔のない女の視線が、狭く細く閉じられて、限界まで鋭く研がれた視線がおれを刺したからよかった。タイトル横の作者名は別の誰かの名前だった。

 名古屋に到着できたのは、我々の無知さによる幸運だった。

 市内のミニ・クーパーを専門に扱うショップで、イグニッションコイルという部品がすべて完全に擦り切れているのと、点火するためのパーツのようなどこかの部分が壊れていたのと、あとはオイルが不足していることがわかった。前回の点検で整備不良があったようだ。走れているのが奇跡みたいな状態で、もし三人のうち誰かが車のパーツに詳しければ、そんな危険な状態を維持できるわけがなかっただろう。名古屋へは無知のおかげでたどり着けた。明らかにおかしいエンジンの挙動も、後半になると無為に楽しくなってきてしまって、畦道を走る軽トラックの荷台に捕まっているようなオールドスクールにも程があるスリルに旅行のドタバタ感を仮託してしまっていた。

 ミニはすぐに治してもらい、ふたたび市内の何車線もある道路を走った。強い雨が降っていた。“雨男”なのだ。最近はそれも酷くて、用事があって家を出ると必ず空が曇りだす。

 名古屋は卒業旅行を計画していた場所だ。留学した地頭と留年したおれとで、今年卒業するのは井上だけだけど。絶対に、おれがいま考えていることを言ったり、悟られたりしてはいけないと思った。悲しい気持ちとか、憂鬱さとか悔しさとか後悔、未練と諦めとでぽっかり空いた心の空洞を薄い氷の壁で緊急的に塞いでいる。いつも通りのジョークや下品な会話にゲラゲラ笑っている。みんなが。それは本当に楽しい時間だ。本心から笑える。そういう処世術のようなものはギリギリ作用している。いま名古屋にいる意味もおれがこれから透明の世界で生きていくことの意味も好きな人に出会う前の人生の意味も出会ってからの人生の意味もさようならを受けたこれからの意味も全く、全くと言っていいくらい分からなかったけど、ミニのアクセルを全開にして対向車線の大型トラックに頭から突っ込み、二人を道連れにして殺人者と自殺者になる気も全くなかった。そんなことをする理由があるわけないものな。もう死ねない。透明な世界で死ぬことはできないから。透明な世界には構造があって、形があって、これからはそこで生きていくことになるのだ。

 巨大な心の穴を塞いでいた氷がひび割れをきっかけに割れたのはそのすぐ後だった。味噌のどて煮と地鶏の手羽先、味噌おでん、ビール、日本酒が並んだテーブルのうえで結局おれは二人にすべてを言ってしまった。

 辛い気持ちなどではもうないし、ニュースの原稿を読み上げるように淡々と今までのこと、これからどうやって生きていくつもりかを伝えたつもりだったが、そんな非情な芸当はおれにはできないし、結局叫ぶような格好で情けない後悔の言葉を吐いては捨て吐いては捨てた。気持ち悪くなって実際に嘔吐した。便器にありったけの気持ち悪い塊を。味噌ばかり食べていても吐いたものは真っ白なのだということに気付いた。二人はおれの立場になってなにかものを言ったりしないところが良い。そのままに思ったことを言われた。それは透明な世界の中ではっきりと傷付いたことだ。ちゃんと痛かった。良かった。

 実際には、ゆるやかな失恋だった。はじめてその子の顔を見たときからその決定事項は免れなかったようにも思える。

 他の女性と寝たり交際したりしながら、ぼんやり抱いていた恋心はやがて宿命論のような捻れた執着心を纏ったものに変質し、その子にとっておれも大切な存在であって欲しいと切望しながら、また他の女に快楽をゆだねたりして、その滑稽さに何度も発狂しかけてもなお、泥沼みたいなこの感情はなんなのか？きっと好きだという気持ちには違いないが、なぜそんな不誠実なことを許せる？いや許されようなんて思ってない。じゃあとっとと消えろ、気持ちが悪い。

 ということを毎日も何年も考えながら、結局諦められるわけがなかった。

 好きになってもらおうとしていた。このブログは、最初からずっとその子に読んでもらいたかったから書いている。

 今よりおれがもっと愚かだったころ、毎日が楽しくて、明日に形なんてなかった。形がないから適当なことをして暮らしていけた。なにも考えなくてもよかった。この子となんとなく結婚したいだとか、ほんとうに考えていた。その子の地元に行って一緒に暮らして、夜一緒にテレビをみて笑って、肩を寄せ合って他に誰もいらないような閉じられた空間のなかでなんとなく幸せだったらいいなとか本当に考えていた。本物の愚か者だ。

 おれとその子は一度も付き合っていなかった。付き合うって、なんなんだろうね。って何回か話したことがある。いまならこれくらいは言える。付き合うってなんなんだろう。の答えは「形のある現実を生きること」だ。二人で毛布にくるまってどうしようもないくらい甘い、おとぎ話のような妄想を説いたり説かれたりするのは幸せだった。人生で一番幸せな時間だった。その子のキスは人生を肯定してくれた。今でも、そのために産まれてきたのだと思っている。その子とキスをするために産まれてきたんだと。これからの人生であんなに全てが完璧なことが起きるとは思えない。思いたくはない。現実は毛布の外にあった。シビアで、具体性を持った解決しなければならないことが毛布の外には山積していて、それから逃げてはいけないんだ。それから逃げてはいけなかったのに、逃げた。形のない夢物語は終わって、人生がはじまってしまった。

 人生がはじまってしまった

 世界が色づいていたとき、その子のことは結局ほとんどなにも知らなかった。綺麗な顔の美しい瞳たちに見つめられたとき、その眼の奥におかれていた深い悲しみや、孤独のようなものにひどく心を打たれた。なんて眼だろうと思った。眼の奥にあったなにかと、おれとの間には絶望的な距離があった。そこにあったものがなんだったのかを知ることはできなかった。打ち明けられたかった。信用されなかったのは悲しいことだ。もうその瞳を覗くこともできない。悲しいことだ。

 明日起きたら引っ越す準備を進めて、粗大ゴミを捨てて、就職活動をはじめる。東京にしばらく住んで、それからどこかに引っ越して、本を読んで、それから働く。生きることの意味だとか、人生の意味が少しだけ分かったような気がした。いずれにしても、その子と出会えなかったら、こんなことを考えることすらもできなかったのだから、悲しいけれど幸福だ。悲しいけれど、きっと幸福なのだ。